動物園南の橋の上に,木の実が落ちていました。[写真1]
サクランボのような形をした,針葉樹の球果です。
しかし,まわりを見回しても,それらしき針葉樹が見当たりません。
ひょっとしてこの木かなと,そばにある木を,眼を凝らしてじっと見上げていると,ありました。
枝に球果がくっついています。[写真2]

動物園の南西角に植えられている大きな木です。[写真3]
葉は一見柔らかな複葉に見えますし,落葉するので,まさか針葉樹だとは思っていませんでした。
球果から放出された種が落ちていないか周辺の地面を探すと,隅の方に泥まみれの薄い丸い種が落ちていました。[写真6左下]

図鑑で調べると,これはメタセコイアの球果でした。
メタセコイアの球果は,鱗片の先が横長の盾状で中央がくぼみ,唇のように見えるのが特徴です。[写真6左上]
微笑んでいるようにみえたり,情けない表情に見えたり,面白いですね。

『朝日百科 植物の世界』(1997年)には,メタセコイアについて次のように書いてありました。

雌雄同株の落葉高木で,高さ30メートルほどになる。葉は対生し,長さ1~2センチの線形の葉が2列に水平に並んで羽状の短枝(たんし)をつくる。秋になると短枝ごと落ちるが,その腋には十字対生する芽鱗(がりん)におおわれた芽が1~2個つく。花は早春に開き,雄花は長さ8ミリほどの楕円形で,樹幹の外側に伸びた長枝(ちょうし)に対生する。雌の球花は長さ7~8ミリの長楕円形で,前年の短枝が落ちた跡の腋から伸びた短い枝に頂生し,秋に成熟して球果となる。球果は長さ1.6~2.5センチの広楕円形で,18~26個の扇形の鱗片が十字対生する。鱗片の上面には5~9個の種子がつく。種子は偏平で縁には翼(よく)があり,基部はくぼむ。

・「葉は対生し,長さ1~2センチの線形の葉が2列に水平に並んで羽状の短枝」をつくります。[写真4][写真5]
一見したところ羽状複葉のように見えますが,小葉のように見える細長い葉一枚一枚が単独の葉です。
・「秋になると短枝ごと落ちる」
落葉するときは,[写真5]の短枝ごと落ちます。
・球果には「扇形の鱗片が十字対生」します。
[写真6右下]は,頂部の鱗片を切り取って,中をみたところ。
・種子は「偏平で縁には翼があり」ます。[写真6左下]
風にのせて種子を遠くまで飛ばすため,種子はうすく,大きな翼をもっています。
風散布の種子は重量を軽くするため,養分を多く貯めることができません。
そのため芽生えてすぐに光合成ができるよう,明るい場所に生育するものが多いそうです。

今は忘れられていますが,昭和20年代,30年代には,メタセコイアは「生きた化石」として有名な木でした。
メタセコイアは,日本各地の粘土層に含まれる植物遺体の研究をしていた古植物学者の三木茂によって,1941年に新属として発表されます。
この年は太平洋戦争がはじまった年で,世界各地の研究機関に船便で発送された英語の論文はほとんど届かず,ごく一部の研究機関にのみ届いただけでした。
届いた先に北京の静生生物研究所があり,所長の胡博士は三木氏と面識がある間柄でもありました。
偶然にも同じ1941年に,南京大学の教授が四川省の村で,神木として祀られていた巨大な樹木を見かけます。
数年を経て,この樹木の葉と球果の標本が,静生生物研究所に持ち込まれます。
三木論文を読んでいた胡所長は,この植物が絶滅したはずのメタセコイア属であることに気づきます。
1946年に新種発見の第一報が発表されると,「植物学における世紀の事件」として世界中で大きな反響をよびます。

1949年,米国で播種された苗木が天皇に献上され,日本でも社会的に大きな話題となります。
絶滅していたと思われた化石植物が現存し,それを命名したのが日本人であったというニュースは,戦後の混乱した社会のなかで,日本人の誇りとして大きく取り上げられたのでした。
その後,米国から贈られたメタセコイアの苗木が全国各地に植えられ,それぞれの地方でまた大きな話題となってゆきます。

メタセコイアは挿木が容易で,生長が早く,大きく育つため,パルプ資源や造林木としても期待が高まり,全国各地で盛んに植林されます。
しかし,スギやヒノキといった在来種と比較して材質的に劣っていることが判明すると,植林熱は急速に冷めます。
1960年代,日本が高度成長時代に入るとともに,珍しさも薄れ,メタセコイアは人々から忘れられてゆきます。

メタセコイア発見の物語については,斎藤清明著『メタセコイア 昭和天皇の愛した木』(1995年)に詳しく,興味深いエピソードが色々載っていました。

それにしても,こんなにすくすくと育っているのに,どうして絶滅してしまったのでしょうね。