■ 九条山という地名について

 東海道が東山を越えるあたり日ノ岡峠の北側を九条山といいます。三条通に面しているのに九条山の名がついているのは,元九条家の持ち山だったからです。しかし正式な住所表記には九条山という地名はなく,公称町名では山科区日ノ岡夷谷町と山科区日ノ岡一切経谷町にあたります。

 京津線が通る日ノ岡峠の一番高いところに九条山駅がありました。昭和11年(1936)に設置された当初は,京都大学花山天文台に近いことから天文台下駅という名称でした。九条山駅に改称されたのは昭和18年(1943)。しかしこの九条山駅も地下鉄東西線開通により平成9年(1997)に廃止されました。九条山という地名が知られるようになったのは九条山駅の存在が大きかったと思います。駅がなくなったこれからは次第に九条山という地名が忘れられていくのではないかと危惧します。

 九条山という地名が使われるようになったのはそんなに古いことではありません。『史料 京都の歴史』所収の古文書類には,一切経谷,恵比須谷の地名は出てきますが,九条山という地名はでてきません。同書に出てくる最も古い例は,昭和11(1936年)年に関西日仏学館が九条山から吉田に移転した際の稲畑勝太郎の落成式謝辞「(昭和2年に)山科九条山の地に関西日仏学館を建設し‥」です。昭和18年に天文台下駅が九条山駅に改称されていることからも,九条山という地名が定着したのは昭和に入ってからのようです

■ 国勢調査報告書に見る九条山の変遷

 いつ頃から九条山に人が住んでいるのか国勢調査報告書を調べてみました。
一番古い大正9年の報告書には,九条山が属する山科村は総数のみで地域ごとの内訳は載っていません。

市町村名14歳以下15~59歳60歳以上
山科村3,7405,549806

 大正14年の報告書には「小字一切経谷一圓」で50世帯221人となっています。

山科村世帯数人口総数
大字日岡小字一切経谷一圓5022113091

 昭和5年,10年の報告書には「九條山」の地名が出てきます。昭和5年「大字日岡三条街道以北以西一切経谷夷谷九條山全部トス」73世帯328人。

区域世帯数人口総数
大字日岡三条街道以北以西一切経谷夷谷九條山全部トス73328178155

 昭和10年「九條山」53世帯231人,「日ノ岡峠町」47世帯211人。峠町は九条山と同じく公称町名ではありません。現在も町内会は九条山町内会と峠町町内会とに分かれていて,大まかには夷谷町が九条山町内会,一切経谷町が峠町町内会となっています。一切経谷町は飛び地がいくつもありますが,主には日向神社及びその参道付近と,三条通りに面した旧九条山駅周辺です。昭和10年には旧九条山駅付近にある程度の人家があり,そのため駅も設けられたようです。

区域世帯数人口総数
九条山53231102129
日ノ岡峠町47211109102

 昭和35年の報告書には九条山,峠町の地名はなくなり,公称町名夷谷町94世帯517人,一切経谷町62世帯209人となっています。

公称町名世帯数人口総数
山科日ノ岡夷谷町94517269248
  ”  一切経谷町62209103106

 昭和60年は夷谷町187世帯1316人,一切経谷町55世帯119人となっています。

地域世帯数人口総数
日ノ岡一切経谷町551196455
日ノ岡夷谷町1871316521795

 総括すると,大正時代には三条通り沿いの一切経谷町(峠町)に50世帯前後が居住し,昭和以降も数はあまり増加していません。夷谷町は大正時代のほぼ0から,昭和5年約20世帯,昭和10年53世帯,昭和60年には187世帯と昭和に入って急激に増加しています。

■ 地形図に見る九条山の変遷

 2016年に「近代京都オーバーレイマップ」が公開され,明治期以降各年代の地形図をweb上で見ることができるようになりました。九条山周辺地形図の変遷を見てみました。
 このシステムで見ることができるのは,
・都市計画図(大正11年、昭和4年、昭和10年、昭和28年)
・陸地測量部地形図(明治25年仮製図、大正元年正式図)
・京都市明細図(昭和2年頃長谷川家所蔵版、昭和26年頃京都府総合資料館版)
ですが,残念ながら京都市明細図については当時九条山は京都市外だったため範囲外になっています。

・明治25年(1892年)(陸軍2万分1仮製地形図)

明治25年(1892年)(陸軍2万分1仮製地形図)

 明治22年(1889年)に完成したばかりの琵琶湖疎水第3隧道が描かれています。人家は東海道(三条通り)沿いにまばらにあるだけで,山腹には見当たりません。山腹の所どころに土砂崩落地の記号があります。山全体の植生記号は松林となっています。東海道沿いに記念碑の地図記号があります。明治10年(1877年)に建立された修路碑ではないかと思いますが,現在の位置より300mほど北にあります。村名は日岡村と書いてあります。

・大正元年(1912年)(陸軍2万分1正式地形図)

大正元年(1912年)(陸軍2万分1正式地形図)

 1912年は7月30日までが明治45年,7月30日以降が大正元年です。明治45年(1912年)に完成したばかりの第2疎水のトンネルが描かれています。同じ年の5月に完成したはずの御所水道は描かれていません。インクラインができて蹴上付近が大きく変わっています。東海道(三条通り)の両側は石垣になり陸橋らしきものが2つ描かれています。山腹に人家はありません。植生記号が針葉樹林に変わっています。村名が日岡村から山科村に変わっています。

・大正11年(1922年)京都市都市計画図

大正11年(1922年)京都市都市計画図

 北側山腹に「御所水源池」と書かれた御所水道の貯水池ができています。アクセス道路が三条通りから伸び,日向神社参道へ抜けています。この道は現在も,幹線道路から九条山への唯一の進入路です。御所水道は琵琶湖疎水から取水しポンプで九条山に設けた貯水池へ揚水,京都御所との高低差を利用して水を送る仕組みです。明治45年(1912年)に完成。当時は「大日山貯水池」と呼ばれていました。「九条山」という地名はまだ使われていなかったことがわかります。
 三条通りに京津電気鉄道の線路が見えます。大正元年(1912年)に三条大橋駅-札ノ辻駅間が開通しています。三条通り沿いの斜面に人家が建ち始めています。山腹の進入路沿いにも1軒建物があります。

・昭和4年(1929年)京都市都市計画図

昭和4年(1929年)京都市都市計画図

 大日山貯水池への進入路から枝分かれして道が拡がり,山腹に住宅が建ち始めています。1927年(昭和2年)にフランス政府が設置した関西日仏学館もあります。キャッチフレーズは「フランスが来ている,諸君の前に」。音楽会や詩の朗読会,講演会が催されると,学生,学者,京阪神の名士,欧米人が集まり国際色豊かだったそうです。当時建てられた住宅で今も残っているものには洋風な建物が多くあります。関西日仏学館が町の雰囲気をつくっていたことがうかがえます。
 三条通りの現在花鳥橋があるあたりから華頂山山頂に向かって曲がりくねった道が伸びています。花山天文台へのアクセス道路です。京津線の天文台下駅(九条山駅)はまだありません。

・昭和10年(1935年)京都市都市計画図

昭和10年(1935年)京都市都市計画図

 現在,東山老年サナトリウムがある場所に東山ダンスホールの大きな建物が建っています。東山ダンスホールは昭和8年(1933年)に開設され,昭和15年(1940年)戦時体制強化のため閉鎖されました。京津線天文台下駅(九条山駅)が設置されるのは昭和11年です。こんな不便なところにお客はどうやって行ったんだろうと思いますが,昭和10年発行の『旅程と費用概算』という本に次のように書いてありました。

東山ダンスホール(東山区九條山,京阪電車京津線ケアゲ又は京阪バス東山ホール前下車)

・昭和28年(1953年)京都市都市計画図

昭和28年(1953年)京都市都市計画図

 京津線九条山駅ができて,駅寄りに家の数が増えています。御所水道貯水池に浄水場設備が設けられています。昭和24年,占領軍の命によって御所水道大日山貯水池は京都市に移管され浄水場となりました。名称は大日山浄水場ではなく九条山浄水場となっています。

・令和4年(2022年)京都市都市計画図

令和4年(2022年)京都市都市計画図

 最新の都市計画図は「京都市都市計画情報等検索ポータルサイト」から見ることができます。
三条通りに京津線の線路がなくなり,車道が広くなっています。山腹にはぎっしりと家が建っています。関西日仏学館跡に日仏交流会館(ヴィラ九条山)が建設されました。九条山浄水場は業務を停止し,敷地は令和4年(2022年)に強羅花壇へ売却されました。まだ工事は始まっておらず施設はそのまま残っています。東山ダンスホールのあった場所には東山老年サナトリウムの施設が敷地いっぱいに建っています。三条通りからは木に囲われていて見えないのですが,いつの間にかこんなにぎっしりと建物が建っています。

 地形図の変遷からわかったことをまとめると,
① 明治以前には九条山の山腹に住宅はなく,東海道(三条通り)沿いと日向神社参道沿いにわずかに住宅があった。
② 明治45年(1912年)に山腹に御所水道の貯水池が設けられたことを契機に住宅が建ち始めた。
③ 洋館建てが残るのは,関西日仏学館の影響と考えられる。(昭和初期という時代の影響かもしれませんが)
④ 昭和11年(1936年)に京津線九条山駅(天文台下駅)が設置されたことにより,住宅開発が加速した。

■ 疎水工事当時の九条山

第3隧道西口

琵琶湖疎水第3隧道西口

 京都府立歴彩館デジタルアーカイブの琵琶湖疎水第3隧道西口の工事写真に九条山が写っています。白黒写真をPhotoshopでカラー化してみました。第3隧道西口の着工は明治20年(1887)7月,完成は明治22年(1889)3月。写真は着工間もない頃と完成間近の頃のようです。 正面の山が九条山です。山腹に人家はなく,松林になっています。山頂まで木が切り倒されているのは,頂上が丁度トンネルの真上にあたるため,旗を立てて見通したためです。旗を立てた標石は今も山頂に残っています。

山頂に残る標石

 同時期の第3隧道東口の様子です。九条山と異なり植生はまばらでほとんど禿山状態です。九条山は九条家の持ち山だったため植生が守られていたのでしょうか。

第3隧道東口

■ 九条山という山

 明治45年(1912)山腹に御所水道の貯水池が造られ,これを契機に九条山の住宅開発が始まります。これは私の想像ですが,開発した住宅地の通称町名として,九条山という九条家とのゆかりを強調する名前を使ったのではないかと思います。高台の住宅地を○○山と名付ける例はよくあります。
 それまでは九条家の持ち山はあっても,九条山という山はなかったのではないか。御所水道の貯水池も九条山ではなく大日山貯水池と呼ばれていましたし,琵琶湖疎水の第3隧道建設に際しても九条山という地名はでてきません。東山三十六峰というとき,周辺の南禅寺山,大日山,神明山,粟田山,華頂山は入っていますが,九条山は入っていません。九条山と呼ばれる山は元々なくてあくまでも大日山の一部であり,九条山という住宅地の地名が定着するにしたがい,九条山という山が単独で意識されるようになったということではないでしょうか。
 そのうえで九条山という山はどこかといえば,九条山町内の背後にある,山頂に「九条家」という石杭がある山ということになります。

九條家石杭

■九条山の住宅開発

 九條山の住宅開発を行ったのは誰だったのでしょうか。
 『京都ふらんす事始め』(宮本エイ子著)には,日仏学館の土地について次のように書いてありました。

予想外の基金が集まり,京都府宇治郡山科村大字日ノ岡夷谷17番地の22,俗称九条山に,760坪3合8勺の地を日本住宅株式会社より購入した。九条山はかつて公卿九条家に属していたので,この称があるという。都ホテル,南禅寺,蹴上の日向大神宮と,呼べば答えるほどの近い距離にあった。

 「日本住宅株式会社から購入した」とあります。「日本住宅株式会社」という名前には,何となく胡散臭い不動産屋の感じを受けたのですが,そうではありませんでした。日本住宅株式会社社長の阿部元太郎は,阪急グループ創設者の小林一三と並んで阪神間の郊外住宅地開発の牽引役となった人物です。

 昭和7年の『日本全国諸会社役員録』によると,日本住宅株式会社の本社は大阪市西区にあり,それぞれの住宅経営地に出張所がありました。九條山荘園出張所,石橋荘園出張所,雲雀丘出張所,寶来園出張所,松風荘出張所,昭和園出張所,瓢箪山荘園出張所,鶴水園出張所の8箇所が記載されてます。九條山の出張所については,戦前から町内に住んでおられるI氏から聞いたことがあります。玉姫大明神の南側に住宅会社の事務所があり,後に一時住民の集会所として使われていたこともあったそうです。ちなみに玉姫大明神もこの業者が地域安寧のため建立したとか。

 昭和3年の雑誌『財界研究』,4年の雑誌『大阪工業倶楽部』には毎月,日本住宅株式会社の広告が載っていました。

雑誌『大阪工業倶楽部』昭和4年7月の広告

 「今は住宅地お求めの好期!」「土地は安全有利末代です!」と売り込んでいます。第1次世界大戦の好景気を受けて土地開発ブームがおこりましたが,戦争が終わるとしだいに不景気となり,昭和2年(1927年)には「昭和金融恐慌」がおこります。そんな時代を反映した惹句です。思い通りには売れていなかったのかもしれません。
 「洛東唯一の景勝地 九條山荘園 京都市電蹴上終点より京津線に沿ひ東南二丁,東山隋一の見晴地にして松樹の翠巒に繞らされたる中より岡崎方面を脚下に遠く比叡鞍馬の山々を望む上水道完備
見晴らしがよいことを強調しています。写真手前に二つ並んだ御所水道の水源池,中央にインクラインの線路が見えます。上水道完備をうたっています。

雑誌『大阪工業倶楽部』昭和4年12月の広告

 「洛東第一の見晴地にして日佛學館あり 設備完全」。開館したばかりの日仏学館(昭和2年10月開館)をアピールしています。

 ここで「九條山荘園」という名称が気になります。現在では「九條山荘園」の名称は使われていませんが,古い住所表記を見ると「九條山荘園」とか「九條山荘」が使われていることがあります。(『日本人名選』(昭和15年)に載っていた俳優の片岡千恵蔵氏の住所は「京都市山科日ノ岡夷谷町九條山荘園」となっていました。昭和5年発行の『新京都百景』では開発地を「洛東九条山荘」としています。)
 明治から昭和初期にかけての住宅地開発では,庭園的要素を表現して「園」(苦楽園,甲陽園,昭和園…)を,別荘地的な要素を表現して「荘」(六麓荘,松風荘,春風山荘…)を付けたといわれています。「荘園」には両方が入っているともいえます。阿部元太郎が好んだ表現なのでしょうか,いくつかの経営地に荘園の名を付けています。

 阿部元太郎がもっとも力をいれたといわれる雲雀丘の住宅開発について,雑誌『宅地開発』(1990年)に次のように書いてありました。

 雲雀丘地区は大正5年に大阪で活躍した阿部元太郎氏が1万坪の宅地分譲をした頃から始まる。
 この住宅地は北摂山系長尾山南部山麓の一角に位置し,起伏豊かな地形によるめぐまれた眺望に加え,冬暖かく夏は涼しい気候と交通の至便さも手伝って,関西の財界から注目され,鉄鋼や繊維関係の経営者が早くから住みついた別荘地である。
 近在の山本地区の植木,造園技術の粋を生かし,自然の地形、 植生を取り込んだ和風の庭園と大正末期から昭和初期にかけての和洋折衷型の開放的な邸宅が一体となって郊外型の独特な住宅文化を誕生させたのである。
 宅地規模は小さいもので1区画500坪,平均で1000坪~2000坪,大きいもので3000坪とに分けられ自然を生かした建築宅造思想の下,道路沿いは90cm後退して生垣をし,よう壁は玉石積みやくずれ石積としていた。コミュニティ活動も活発で,清掃活動は言うに及ばず,住環境保持のための約束事も不文律として徹底していた。

 雲雀台の開発コンセプトは九条山にも通じるものがあります。
山際の山林開発
 →松林だった大日山を開発
めぐまれた眺望
 →「東山隋一の見晴地にして松樹の翠巒に繞らされたる中より岡崎方面を脚下に遠く比叡鞍馬の山々を望む」
良好な気候
 →ただし,九条山の夏は涼しいですが冬は寒いです。
交通の至便さ
 →「京都市電蹴上終点より京津線に沿ひ東南二丁」
和風の庭園と和洋折衷型の邸宅
 →当時の家で残っているものは洋館建てか,日本家屋でも一部が洋風な和洋折衷型です。
大きな宅地規模
 →現在の区画は細分化されてしまっていますが,当時のまま残っている家の敷地はかなり広いです。1000坪を越える敷地もいくつかあります。
道路沿いはセットバックして生垣
 →当時からの家には必ず生垣があります。
活発なコミュニティ活動,住環境保持のための約束事
 →今は失われていますが,昔は住宅の外観について取り決めがあったと聞いています。

 こうしてみると九条山の開発は単なる宅地造成ではなく,阿部元太郎の理想的宅地開発の系譜,ひいては明治から昭和初期にかけておこなわれた阪神間の山麓住宅地開発につながるものと見ることができます。

■ 一切経谷と夷谷

「日向大神宮文書」所収の図

日向神宮文書

 日向神社南側の山が「九條家持山」とあることから,九条山が九条家の持山だったことが分かります。 この図で興味深いのは,一切経谷と夷谷の位置関係です。一切経谷のうち日向神社の社のある部分だけを夷谷としています。これは『花洛名所図会』日向神明宮の項に「鎮座の地を恵比寿谷といふ,社司一家」とあることと一致します。