最終更新日:2023年5月16日
■ 九条山という地名について
東海道が東山を越えるあたり日ノ岡峠の北側を九条山といいます。三条通に面しているのに九条山の名がついているのは,元九条家の持ち山だったからです。しかし正式な住所表記には九条山という地名はなく,公称町名では山科区日ノ岡夷谷町と山科区日ノ岡一切経谷町にあたります。
かつて京津線が通る日ノ岡峠の一番高いところに九条山駅がありました。昭和11年(1936)に設置された当初は,京都大学花山天文台に近いことから天文台下駅という名称でした。九条山駅に改称されたのは昭和18年(1943)。しかしこの九条山駅も地下鉄東西線開通により平成9年(1997)に廃止されました。九条山という地名が知られるようになったのは九条山駅の存在が大きかったと思います。駅がなくなったこれからは次第に九条山という地名が忘れられていくのではないかと心配です。
九条山という地名が使われるようになったのはそんなに古いことではありません。『史料 京都の歴史』所収の古文書類には,一切経谷,恵比須谷の地名は出てきますが,九条山という地名はでてきません。同書に出てくる最も古い例は,昭和11(1936年)年に関西日仏学館が九条山から吉田に移転した際の稲畑勝太郎の落成式謝辞「(昭和2年に)山科九条山の地に関西日仏学館を建設し‥」です。昭和18年に天文台下駅が九条山駅に改称されていることからも,九条山という地名が定着したのは昭和に入ってからのようです
■ 国勢調査報告書に見る九条山の変遷
いつ頃から九条山に人が住んでいるのか国勢調査報告書を調べてみました。
一番古い大正9年の報告書には,九条山が属する山科村は総数のみで地域ごとの内訳は載っていません。
市町村名 | 14歳以下 | 15~59歳 | 60歳以上 |
---|---|---|---|
山科村 | 3,740 | 5,549 | 806 |
大正14年の報告書には「小字一切経谷一圓」で50世帯221人となっています。
山科村 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
大字日岡小字一切経谷一圓 | 50 | 221 | 130 | 91 |
昭和5年,10年の報告書には「九條山」の地名が出てきます。昭和5年「大字日岡三条街道以北以西一切経谷夷谷九條山全部トス」73世帯328人。
区域 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
大字日岡三条街道以北以西一切経谷夷谷九條山全部トス | 73 | 328 | 178 | 155 |
昭和10年「九條山」53世帯231人,「日ノ岡峠町」47世帯211人。峠町は九条山と同じく公称町名ではありません。現在も町内会は九条山町内会と峠町町内会とに分かれていて,大まかには夷谷町が九条山町内会,一切経谷町が峠町町内会となっています。一切経谷町は飛び地がいくつもありますが,主には日向神社及びその参道付近と,三条通りに面した旧九条山駅周辺です。昭和10年には旧九条山駅付近にある程度の人家があり,そのため駅も設けられたようです。
区域 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
九条山 | 53 | 231 | 102 | 129 |
日ノ岡峠町 | 47 | 211 | 109 | 102 |
昭和35年の報告書には九条山,峠町の地名はなくなり,公称町名夷谷町94世帯517人,一切経谷町62世帯209人となっています。
公称町名 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
山科日ノ岡夷谷町 | 94 | 517 | 269 | 248 |
” 一切経谷町 | 62 | 209 | 103 | 106 |
昭和60年は夷谷町187世帯1316人,一切経谷町55世帯119人となっています。
地域 | 世帯数 | 人口総数 | 男 | 女 |
---|---|---|---|---|
日ノ岡一切経谷町 | 55 | 119 | 64 | 55 |
日ノ岡夷谷町 | 187 | 1316 | 521 | 795 |
総括すると,大正時代には三条通り沿いの一切経谷町(峠町)に50世帯前後が居住し,昭和以降も数はあまり増加していません。夷谷町は大正時代のほぼ0から,昭和5年約20世帯,昭和10年53世帯,昭和60年には187世帯と昭和に入って急激に増加しています。
■ 地形図と航空写真に見る九条山の変遷
明治以降の地形図と航空写真で九条山の変遷を見てみました。昔の九条山付近の様子は江戸時代の絵図などにも描かれていますが,正確で信頼できる資料となると明治期以降の地形図や航空写真になります。
京都における近代的な地形図の最初のものは明治25年に陸軍が作成した仮製地形図です。しかし,それより前に琵琶湖疎水をつくるために作成された測量図が存在します。島田道生が明治15(1882)年4月から約1年掛けて,精密な三角測量を行い作成した「従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路目論見実測図」です。(現在,琵琶湖疎水記念館に展示されています。)
明治期以降各年代の地形図はweb上で見ることができます。2016年に「近代京都オーバーレイマップ」が公開されたおかげです。このシステムを使い,陸地測量部地形図(明治25年仮製図、大正元年正式図)と都市計画図(大正11年、昭和4年、昭和10年、昭和28年)の九条山周辺のスクリーンショットを作成しました。航空写真(空中写真)は国土地理院のサイトからダウンロードしたものです(最新のものはGoogleマップを使いました)。
・明治16年(1883年)(従滋賀県近江国琵琶湖至京都通水路目論見実測図)

琵琶湖疎水が開削される前の状況がよく分かります。現在,第3隧道西出口となっているあたりは山に入り込むように狭い谷になっていて,畑か田圃がつくられています。周辺にたくさん記されている数字は,琵琶湖の水位と比べた時の土地の高さを示しています。
九条山の山腹には人家は見当たりません。九条山山頂の西側にもう一つの頂があります。位置的には現在ヒルデモアがある九条山中部あたりでしょうか。この頂上部分を削って住宅地にしたようです。
・明治25年(1892年)(陸軍2万分1仮製地形図)

明治22年(1889年)に完成したばかりの琵琶湖疎水第3隧道が描かれています。人家は東海道(三条通り)沿いにまばらにあるだけで,山腹には見当たりません。山腹の所どころに土砂崩落地の記号があります。山全体の植生記号は松林となっています。東海道沿いに記念碑の地図記号があります。明治10年(1877年)に建立された修路碑ではないかと思いますが,現在の位置より300mほど北にあります。村名は日岡村と書いてあります。
・大正元年(1912年)(陸軍2万分1正式地形図)

1912年は7月30日までが明治45年,7月30日以降が大正元年です。明治45年(1912年)に完成したばかりの第2疎水のトンネルが描かれています。同じ年の5月に完成したはずの御所水道は描かれていません。インクラインができて蹴上付近が大きく変わっています。東海道(三条通り)の両側は石垣になり陸橋らしきものが2つ描かれています。山腹に人家はありません。植生記号が針葉樹林に変わっています。村名が日岡村から山科村に変わっています。
・大正11年(1922年)京都市都市計画図

北側山腹に「御所水源池」と書かれた御所水道の貯水池ができています。アクセス道路が三条通りから伸び,日向神社参道へ抜けています。この道は現在も,幹線道路から九条山への唯一の進入路です。御所水道は琵琶湖疎水から取水しポンプで九条山に設けた貯水池へ揚水,京都御所との高低差を利用して水を送る仕組みです。明治45年(1912年)に完成。当時は「大日山貯水池」と呼ばれていました。「九条山」という地名はまだ使われていなかったことがわかります。
三条通りに京津電気鉄道の線路が見えます。大正元年(1912年)に三条大橋駅-札ノ辻駅間が開通しています。三条通り沿いの斜面に人家が建ち始めています。山腹の進入路沿いにも1軒建物があります。
・昭和4年(1929年)京都市都市計画図

大日山貯水池への進入路から枝分かれして道が拡がり,山腹に住宅が建ち始めています。1927年(昭和2年)にフランス政府が設置した関西日仏学館もあります。キャッチフレーズは「フランスが来ている,諸君の前に」。音楽会や詩の朗読会,講演会が催されると,学生,学者,京阪神の名士,欧米人が集まり国際色豊かだったそうです。当時建てられた住宅で今も残っているものには洋風な建物が多くあります。関西日仏学館が町の雰囲気をつくっていたことがうかがえます。
三条通りの現在花鳥橋があるあたりから華頂山山頂に向かって曲がりくねった道が伸びています。花山天文台へのアクセス道路です。京津線の天文台下駅(九条山駅)はまだありません。
・昭和10年(1935年)京都市都市計画図

現在,東山老年サナトリウムがある場所に東山ダンスホールの大きな建物が建っています。東山ダンスホールは昭和8年(1933年)に開設され,昭和15年(1940年)戦時体制強化のため閉鎖されました。京津線天文台下駅(九条山駅)が設置されるのは昭和11年です。こんな不便なところにお客はどうやって行ったんだろうと思いますが,昭和10年発行の『旅程と費用概算』には「京阪電車京津線ケアゲ又は京阪バス東山ホール前下車」と書いてありました。
・昭和21年(1946年)航空写真

終戦直後に米軍が撮った航空写真です。写真は地形図と違って情報量が多いですね。まだ空き地はあるものの,昭和10年と比べると家が増えています。昭和30年代に子供たちが野球をしていたというてっぺん山の広場もはっきり写っています。畑になっているのでしょうか,畝らしき筋が見えます。安養寺前の谷にも畑があったと聞いたことがあるのですが,はっきりわかりません。京津線の九条山駅ができています。
・昭和28年(1953年)京都市都市計画図

御所水道貯水池に浄水場設備が設けられています。昭和24年,占領軍の命によって御所水道大日山貯水池は京都市に移管され浄水場となりました。名称は大日山浄水場ではなく九条山浄水場となっています。
・昭和36年(1961年)航空写真

昭和34年(1959年)東山ドライブウエイが完成し,三条通りに接続する花鳥橋ができています。昭和21年と比べても,空き地はそんなに減っていません。東山ダンスホールがあった場所には,昭和31年(1956年)に東山老年サナトリウムが開設されているはずですが,建物に変化がありません。建物はそのまま転用されたようです。
・昭和50年(1975年)航空写真

色々なところが整地され土色が目立ちます。昭和47年(1972年)に『日本列島改造論』が出版され,日本全土で開発ブームがおこっていた頃です。
・昭和62年(1987年)航空写真

土色だったところが再び緑で覆われています。旧日仏学館の建物がなくなっています。建物は日仏学館が昭和11年(1936年)に東一条へ移転してから放置されていましたが,老朽化が進んだため昭和56年(1981年)に撤去されています。第百生命九条山寮(現ヒルデモア東山)の大きな建物ができています。昭和60年竣工です。東山老年サナトリウムも大規模に工事中です。
・平成31年(2019年)航空写真

地下鉄東西線の開通により,京津線の線路がなくなっています。日仏学館跡に日仏交流会館(ヴィラ九条山)ができています。てっぺん山の広場も遊ぶ子供たちがいなくなり,緑で覆われています。九条山浄水場は昭和62年(1987年)に浄水場としての利用を停止し,その後水処理実験プラントに転用されていましたが平成16年(2004年)に完全に廃止されました。(敷地は令和4年(2022年)に強羅花壇へ売却されました。令和5年2月現在まだ工事は始まっておらず,施設はそのまま残っています。)三条通りからは木に囲われていて見えないのですが,東山老年サナトリウムの施設が敷地いっぱいに建っています。
■ 疎水工事当時の九条山


京都府立歴彩館デジタルアーカイブの琵琶湖疎水第3隧道西口の工事写真に九条山が写っています。白黒写真をPhotoshopでカラー化してみました。第3隧道西口の着工は明治20年(1887)7月,完成は明治22年(1889)3月。写真は着工間もない頃と完成間近の頃のようです。 正面の山が九条山です。山腹に人家はなく,松林になっています。山頂まで木が切り倒されているのは,頂上が丁度トンネルの真上にあたるため,旗を立てて見通したためです。旗を立てた標石は今も山頂に残っています。

同時期の第3隧道東口の様子です。九条山と異なり植生はまばらでほとんど禿山状態です。九条山は九条家の持ち山だったため植生が守られていたのでしょうか。

■ 九条山という山
明治45年(1912)山腹に御所水道の貯水池が造られ,これを契機に九条山の住宅開発が始まります。開発した住宅地には「九条山」という九条家の持山だったことを示す名前が使われました。それまでは九条家の持ち山はあっても,九条山という山はなかったようです。御所水道の貯水池も九条山ではなく大日山貯水池と呼ばれていましたし,琵琶湖疎水の第3隧道建設に際しても九条山という地名はでてきません。東山三十六峰というとき,周辺の南禅寺山,大日山,神明山,粟田山,華頂山は入っていますが,九条山は入っていません。九条山と呼ばれる山は元々なくてあくまでも大日山の一部であり,九条山という住宅地の地名が定着するにしたがい,九条山という山が単独で意識されるようになったということではないかと思います。
そのうえで九条山という山はどこかといえば,九条山町内の背後にある,山頂に「九条家」という石杭がある山ということになります。

■九条山の住宅開発
九条山の住宅開発を行ったのは誰だったのでしょうか。
『京都ふらんす事始め』(宮本エイ子著)には,日仏学館の土地について次のように書いてありました。
予想外の基金が集まり,京都府宇治郡山科村大字日ノ岡夷谷17番地の22,俗称九条山に,760坪3合8勺の地を日本住宅株式会社より購入した。九条山はかつて公卿九条家に属していたので,この称があるという。都ホテル,南禅寺,蹴上の日向大神宮と,呼べば答えるほどの近い距離にあった。
「日本住宅株式会社から購入した」とあります。「日本住宅株式会社」という名前には何となく胡散臭い不動産屋の感じを受けたのですが,そうではありませんでした。日本住宅株式会社社長の阿部元太郎は,阪急グループ創設者の小林一三と並んで阪神間の郊外住宅地開発の牽引役となった人物です。
昭和7年の『日本全国諸会社役員録』によると,日本住宅株式会社の本社は大阪市西区にあり,それぞれの住宅経営地に出張所がありました。「九條山荘園出張所,石橋荘園出張所,雲雀丘出張所,寶来園出張所,松風荘出張所,昭和園出張所,瓢箪山荘園出張所,鶴水園出張所」の8箇所が記載されてます。九条山の出張所については,戦前から町内に住んでおられるI氏から聞いたことがあります。玉姫大明神の南側に住宅会社の事務所があり,後に一時住民の集会所として使われていたこともあったそうです。ちなみに玉姫大明神もこの業者が地域安寧のため建立したとか。
昭和3年の雑誌『財界研究』と昭和4年の雑誌『大阪工業倶楽部』に日本住宅株式会社の広告が掲載されていました。

「今は住宅地お求めの好期!」「土地は安全有利末代です!」と売り込んでいます。第1次世界大戦の好景気を受けて土地開発ブームがおこりましたが,戦争が終わるとしだいに不景気となり,昭和2年(1927年)には「昭和金融恐慌」がおこります。そんな時代を反映した惹句です。思い通りには売れていなかったのかもしれません。
「洛東唯一の景勝地 九條山荘園 京都市電蹴上終点より京津線に沿ひ東南二丁,東山隋一の見晴地にして松樹の翠巒に繞らされたる中より岡崎方面を脚下に遠く比叡鞍馬の山々を望む上水道完備」
見晴らしがよいことを強調しています。写真手前に二つ並んだ御所水道の水源池,中央にインクラインの線路が見えます。上水道完備をうたっています。

「洛東第一の見晴地にして日佛學館あり 設備完全」。開館したばかりの日仏学館(昭和2年10月開館)をアピールしています。
ここで「九條山荘園」という名称が気になります。現在では「九條山荘園」の名称は使われていませんが,古い住所表記を見ると「九條山荘園」とか「九條山荘」が使われていることがあります。(『日本人名選』(昭和15年)に載っていた俳優の片岡千恵蔵氏の住所は「京都市山科日ノ岡夷谷町九條山荘園」となっていました。昭和5年発行の『新京都百景』では開発地を「洛東九条山荘」としています。)
明治から昭和初期にかけての住宅地開発では,庭園的要素を表現して「園」(苦楽園,甲陽園,昭和園…)を,別荘地的な要素を表現して「荘」(六麓荘,松風荘,春風山荘…)を付けたといわれています。「荘園」には両方が入っているともいえます。阿部元太郎が好んだ表現なのでしょうか,いくつかの経営地に荘園の名を付けています。
■ 日仏学館

・フランスが来ている,諸君の前に
九条山の開発最初期,昭和2年(1927年)に日仏学館が開設されます。昭和11年(1936年)に東一条へ移転するまで,日仏文化交流の中心として多くの人々を惹きつけました。外国との往来が簡単な現在とは違い,フランスが遠い憧れの地だった昭和初期において,丘の上に立つ洋館でフランス人に直接フランス語を学べるのは夢のような存在だったに違いありません。美しいフランス人の女性教師,昼下がりに漂うバター菓子を焼く香り,「フランスが来ている,諸君の前に」のキャッチフレーズは現実のものとしてそこにあったのです。
ここで学び後に色々な分野で活躍することになった人たちが,九条山での思い出を書き残しています。
大学を卒業して二年ほど経った一時期のことである。私は毎日午後三時頃から,九条山の日仏学館へフランス語の勉強に通っていた。蹴上で市電を下りてから丘の中腹の美しい木立に囲まれた学館に辿りつくまでの坂路が,既に私を何となく異国的な快い気持に誘ってくれた。学館に集って来る人達は若い男性女性が半々位でフランス語の会話などにも相当自信のあるらしい人達ばかりで,身なりや態度もそれにふさわしく,先生もフランス人の時間の方が多かったから,他の講習会とはすっかり違ったふんい気がかもし出されていた。
湯川秀樹(『湯川秀樹選集 随筆篇半生の記』(1955年))
医学部の学生だったころである。ほかの医学生とちがったことをしたい気持から日仏学館にかよった。学館は九条山の上の白亜の建物だった。午後の授業のすんだ大学生が出られるのは,四時からの講義であった。自由な仕組みになっていて,1週間のどの時間をえらんでもよかった。
松田道雄(『常識の生態』1956年)
あの静かで,見晴しのよい九条山の丘に,私の楽しい思い出がぎょう縮しているのです。経済観念の発達しているフランス人は,あの丘から見る日の入りを当時の金で十円の値打ちがあるといっていました。 その十円の価値が示すように,今は遠い昔のことになってしまいました。昔の仲間と,昔のように,あの山でさわぎたいものです。
宮城音弥(『カメラ京ある記』朝日新聞京都支局/編(1959年))
・日仏学館が九条山に与えた影響
昭和5年に発行された『京都新百景』(大阪毎日新聞社京都支局編)という本では,明治から大正昭和へと日に日に近代化が進む京都のなかで,特に変化の激しい百か所を選び紹介しています。そのなかの一つに九条山がありました。日仏学館副館長の宮本正清が国際色豊かな住宅地へと変貌した九条山の様子を書いています。
国際的色彩の村が開けて行く。貴族院研究会の領袖として知られた前田子爵の別荘,子女の教育のためにとこの地に移り住んだ伊勢の小野寺氏,本願寺へ参詣のために建てられた名古屋の紳士別荘,等,等,その上日仏学館は初めは京都だけに仏教のなんとかと間違へられたがこれも洛東九条山荘のヴァリエテの一つたるを失うまい。変わっているのはそこの学生で大学教授の夫人,女学校の女先生,名誉ある書家,多数のドクトル,決してお嫁入前のお稽古だなどとはいはれないほど熱心なお嬢様まで集めて,七十有余名,そして時折催される音楽会講演会には,京阪神の名士,実業家,学者,フランス人に,英米人,ドイツ人,ロシア人なども加はっていよいよこの丘の地方色を複雑にする。
『京都新百景』(大阪毎日新聞社京都支局編 昭和5年)
日本住宅株式会社の分譲広告では「洛東第一の見晴地にして日佛學館あり」と銘打っています。娘を日仏学館に通わせるためだけに京都に家を買った神戸の財閥もいたくらいですから,日仏学館の存在は好ましい住環境の一つとして購入の動機付けにはなっていたと思います。実際に,当時の日仏学館会員名簿を見ると住所が九条山になっている会員が7名います。日仏学館に通うアカデミックで国際色豊かな人々が,九条山に華やかな雰囲気を生み出していたことは間違いありません。
当時建てられた住宅に洋館建てや一部洋館風が多いのも,時代的に和洋折衷様式が流行っていたこともありますが,町の雰囲気全体が日仏学館の欧風文化の影響受けていたことをうかがわせます。

・なぜ九条山に設置されたのか
日仏学館の設置場所について,フランス大使のポール・クロデールは当初比叡山を考えていたようです。しかし現実的ではないということで結局九条山に落ち着いています。九条山を推したのは日仏文化協会副会長で設置活動の中心人物であった稲畑勝太郎でした。
稲畑勝太郎は明治10年(1877年)15歳で京都府派遣留学生としてフランスに留学し,帰国後は実業家,貴族院議員として活躍した人物です。実業家として成功した稲畑勝太郎は,明治29年(1896年)現在の南禅寺別荘群の一画に別荘「和楽庵」を営みます。この和楽庵と九条山の日仏学館とは目と鼻の先です。
うっそうと木の茂る現在とは違って周辺の木々の背はまだ低く,和楽庵横のインクラインからは九条山が手に取るように見えたはずです。日仏学館用地に思案していた稲畑勝太郎がそこで始まった宅地開発を見たとしたら……。稲畑勝太郎が九条山に日仏学館の用地を定めた経緯は,案外近くに手ごろな物件があったからということかもしれません。大阪商業会議所会頭だった稲畑勝太郎と,大阪に本社のある日本住宅株式会社社長の阿部元太郎,どちらが九条山の土地購入を持ち掛けたのか興味がわきます。

・日仏学館の移転
九条山にあった日仏学館は昭和11年(1936年)に東一条へ移転します。移転の理由は『稲畑勝太郎君伝』(1938年)によると,受講生が増えて施設が手狭になったこととアクセスの悪さがあげられています。
一方学生の数も漸次増加して,現在の校舎を以てしては,到底これを収容し得ざるに至つた。他面学館の所在地は,幽邃閑寂の境地には恵まれてはいるが,それだけ交通の不便を免れず,館に出入する教授学生を労することも少くなかつた。その結果として関係者間に於て,現在の学館では,到底これ以上発展させることは不可能であるといふことに意見の一致を見,茲に学館の移転改築の議が台頭するに至つた。
稲畑勝太郎君伝(稲畑勝太郎翁喜寿記念伝記編纂界発行 1938年)
以降,九条山の建物は忘れられた存在となり,昭和34年(1959年)発行の『カメラ京ある記』(朝日新聞京都支局編)に「いまは画家が二人,留守番かたがた住んでいるだけだ。」とあります。

・日仏交流会館(ヴィラ九条山)として再出発
荒れ果てていた旧日仏学館の建物は昭和56年(1981年)に撤去され,その後平成4年(1992年)にフランスの芸術家たちが滞在して活動するためのアート・イン・レジデンス,日仏交流会館(ヴィラ九条山)として再出発します。

開設までの経緯について,ヴィラ九条山初代館長ミシェル・ワッサーマン氏は次のように語っています。(2015年1月25日ヴィラ九条山で開かれた講演会のビデオから)
問題はここ九条山が50年間放置されたことです。建物が傷んできました。勝手に住みつく人も出てきました。1970年代には近隣の住民から苦情があがり,1981年には九条山の学館の取り壊しが決定しました。全く利用されていませんでしたから。
ですが建物を壊すにもお金がかかります。建物の所有者は日仏文化協会から変わっていません。取り壊しのために協会は稲畑産業に負債を負うことになります。その結果,協会は土地を売却することにしました。そこでようやく協会は九条山の地の素晴らしさに気づきます。
フランス政府は土地を売却するべきでないと判断します。日本とフランスにまたがる文化協会は,1986年に土地売却ではなく何かを建てることに決定しました。すでに高等研究機関は東京にありました。日仏文化会館ですね。文化教育機関としては関西日仏学館がすでにありました。議論の末,レジデンスを建設することになりました。
当時,稲畑勝太郎の孫が稲畑産業の社長でした。彼が設立のための財務を担当しました。関西の様々な企業から資金を集めるために3年を要しました。京都府や市も資金援助をしてくれました。建設許可を得るにも同じく3年を要しました。建設が開始されたのは1991年1月でした。建設には18ケ月かかりました。最初のレジデントが1992年10月に着きました。1992年11月5日,フランス大使臨席のもと開館式典が開かれました。

■ 一切経谷と夷谷
「日向大神宮文書」所収の図

日向神社南側の山が「九條家持山」とあることから,九条山が九条家の持山だったことが分かります。 この図で興味深いのは,一切経谷と夷谷の位置関係です。一切経谷のうち日向神社の社のある部分だけを夷谷としています。これは『花洛名所図会』日向神明宮の項に「鎮座の地を恵比寿谷といふ,社司一家」とあることと一致します。