門松とともに正月にはかかせない注連縄(しめなわ)飾り。
ご近所の注連縄を見て回ると,様々な形があります。
標準的な形は[写真1]にあるような,藁(わら),紙垂(しで),橙(だいだい),裏白(うらじろ),ユズリハで構成されたものです。
最もシンプルなものは,[写真4]にあるような藁だけを使用したものでした。
注連縄の基本となるものは,藁です。
農耕民族である日本人にとって,自然の恩恵によってもたらされる稲,稲の茎を乾かした藁は特別な力を秘めたもののようです。
注連縄のもともとの形は一本の藁縄で一定間隔ごとに藁の切り下げを垂らした「一文字」と呼ばれるものです。[写真5]
一文字の注連縄をはるということは,内と外,聖と邪を分ける結界をはるということを意味します。
一文字の発展形として,「大根注連(だいこんじめ)」や「牛蒡注連(ごぼうじめ)」,「輪飾り」といったものがあります。
「大根注連」というのは,縄が太くて大根のような形をしたもの[写真3],「牛蒡注連」は大根注連より細くて牛蒡のような形をしているものをいいます。
「輪飾り」は縄の両端をつないで輪にしたものです。
これらの注連縄は一文字のように結界をはるというよりは,門松の松などと同じように神の依代(よりしろ)としての意味があるようです。
岩井宏實著『民具の歳時記 増補版』(2000年)には,注連縄について次のように書いてありました。
注連縄は一定の地域を区切るための目印であり,神事のさいには神聖な場所と不浄な外界とを区別するものである。したがって「標縄」とも書く。『万葉集』巻10の2309に「祝部(はふり)らが齋(いは)ふ社の黄葉(もみちば)も標縄(しめなわ)越えて散るといふものを」とある。またこの縄は,藁を三筋・五筋・七筋と順次により放して垂らすところから「七五三縄」とも書く。
注連縄は,今日の建築儀礼の地鎮祭に見られるように,もともとは年神祭の祭場とする建物全体を長い縄で巻き巡らせるものであったが,徐々に簡略化されて玄関と祭壇ぐらいにしか張らないようになった。しかし一方で,その形状は多彩になったのである。
もっとも一般的なものにも,三ないし四の基本的な形式が認められる。すなわち普通の縄のように細く長いもの,中央を太く両端を細くしたもの,ゴポウジメ(牛蒡締め)などと呼んで一方が太く,徐々に細く綯ったものなどがある。また輪飾りなどと呼び,丸めて用いるものがあるが,これにも牛蒡締めのようなもの,中太のもの,同じ太さの縄を輪にしたものなどがある。ふつうは三筋・五筋・七筋の垂れ下げをつけるのであるが,その上
に裏白などの山草やゆずり葉・柊・燈,あるいは馬尾藻(ほんだわら)などの海藻や海老を添えたりするところもある。また先端に枝葉を残した青竹に,一面に垂れを下げて裏白・ゆずり葉・柊・燈などをつけたもの,京都の「ちよろけん」を模した注連縄など,さまざまである。
色々な家の注連縄を見て回っていると,玄関脇に「蘇民将来之子孫也」と書かれた粽(ちまき)が飾られているのを見かけます。[写真6]
祇園祭の山鉾で授与されている「厄除けの粽」です。
伊勢・志摩地方では,注連縄の中央に「蘇民将来子孫の家」「蘇民将来子孫之御宿」などと書いた木札をとりつけているそうです。
同書に,次のように書いてありました。
伊勢・志摩地方では,注連縄の中央に「蘇民将来子孫の家」「蘇民将来子孫之御宿」などと書いた木札をとりつけており,注連縄は一年中張っておく。この由来を語っているのが,『備後国風土記』に記されている「蘇民将来譚」である。
昔,北海にいた武塔天神が南海の女神のもとにヨバイに訪れたところ,道に迷い,将来兄弟の家に宿を乞うたが,弟の巨旦将来は富んでいたのに宿を貸さず,兄の蘇民将来は貧しかったのに快く宿を貸し,粟柄を座とし,粟飯で饗した。後年,武塔神は恩返しに「茅(ち)の輪」の護符を贈り,腰につけさせた。するとその夜に,蘇民将来一家を残してみな疫病で滅んでしまったというのである。茅の輪は疫病退散の呪具と伝えられ,旧暦六月晦日の茅の輪行事の由来譚ともなっている。
こうした話から伊勢・志摩では蘇民将来の家と表明することによって,悪疫の侵入を防ぎ,一年間家族が無病息災であることを祈念したのである。門柱に「蘇民将来子孫家」の棒護符をつける家もある。