枝にとまったツグミ。[写真1][写真2]
すぐそばでカメラを向けているにもかかわらず,逃げる様子もなくゆうゆうとしています。
かなり太って見えますね。
地面に立って胸を反らせている姿は,もっとスマートに見えるのですが。[写真3][写真4]

ツグミの体重について,平凡社『日本動物大百科 第4巻 鳥類Ⅱ』(1997年)には,次のように書いてありました,

体重は渡来したころは体重75g前後で,それほど太っていない。しかし,渡去直前の4月下旬から5月にかけて多くの脂肪をたくわえ,体重は100gを超え,もっとも重いものでは107gにもなる。

渡りにエネルギーを使うので,脂肪を貯えておく必要があるようです。

私は食べた記憶はないのですが,どういうわけかツグミというと食べる鳥というイメージがあります。
確かにおいしい鳥らしくて,戦前は霞網猟で年に400万羽もの大量のツグミが捕獲されていたそうです。

明治維新前後の木曽を舞台とした,島崎藤村の小説『夜明け前』には,ツグミをはじめとした渡り鳥が食膳にのぼる様子が描かれています。

木曾では鳥屋(とや)の小鳥も捕れ,茸の種類も多くあるころで,旅人をもてなすには最もよい季節を迎えていた。清助は奥の部屋と囲炉裏ばたの間を往ったり来たりして,二人の下女を相手に働いているお民のそばへ来てからも,風呂の用意から夕飯として出す客膳の献立まで相談する。お平には新芋に黄な柚子を添え,椀はしめじ茸と豆腐の露にすることから,いくら山家でも花玉子に鮹ぐらいは皿に盛り,それに木曾名物の鶫(つぐみ)の二羽も焼いて出すことまで,その辺は清助も心得たものだ。

木曾あたりと同じように,加子母峠(かしもとうげ)は小鳥で名高い。おりから,鶫(つぐみ)のとれる季節で,半蔵は途中の加子母というところでたくさんに鶫を買い,六三郎と共にそれを旅の中食に焼いてもらって食ったが,余りの小鳥まで荷物になって,六三郎の足はよけいに重かった。

日の暮れるころから,旧知|親戚のものは半蔵を見に集まって来た。赤々とした炉の火はさかんに燃えた。串差しにして炙る小鳥のにおいは広い囲炉裏ばたにみちあふれたが,その中には半蔵が土産の一つの加子母峠の鶫(つぐみ)もまじっていると知られた。

何だか,おいしそうです。
ツグミはシベリアの針葉樹林に広く生息し,秋になると日本各地へ冬鳥として渡来します。
移動のコースは,日本海を渡って能登半島へ飛来し本州各地へ分散してゆくコースが主流で,一部はサハリンから北海道を経由して本州へ渡るそうです。
渡り鳥の習性として大昔から同じ移動コースをたどっており,移動コースにあたる石川・富山・福井・長野・岐阜などでは,霞網猟が盛んでした。
平凡社『世界大百科事典』(2007年)には,ツグミの霞網猟について次のように書いてありました。

第2次世界大戦前には,山の尾根などにときには数kmも霞網を張りめぐらして,渡来してまだ大群で移動しているツグミを食用のために大量に捕獲していた。その数は狩猟統計によれば,多い年で400万羽以上に達した。大正時代から霞網猟の禁止が一部有識者から唱えられていたが,実際に禁止になったのは1947年であった。しかしその後も密漁があとを絶たないので,自然保護などの面から社会問題化している。

マンガ『美味しんぼ(21巻)』(1989年)には,海原雄山が料理屋で出された焼き鳥を,見ただけでツグミと見破り,激怒するという話があります。(いつものとおり,そのことで山岡士郎を罵倒するのですが)
そのなかに霞網について興味深い話が載っていました。

「この鳥たち,皆 網の糸をしっかりつかんでいる。」
「本当だ,羽根やなんかが網の目にひっかかって動けないんじゃないんだわ。」
「こういう野鳥たちの足の指は,木の枝にしっかりつかまれるように,ひとりでに握るようになっているんだ。だから空を飛んできて網にぶつかって足が網にふれると,反射的に握ってしまう。」
「だって羽根があるんだろう?飛んで逃げればいいだろう?」
「飛び立つ時に,地面なり枝なりを足で蹴らなければ,飛び立てないんですよ。網じゃいくら蹴ってものれんに腕押しで反動がない。それじゃ飛び立てないんです。」

鳥は霞網に体が絡まって逃げられなくのではなく,習性として網糸をつかんでしまって,飛び立てなくなるというのです。
霞網は鳥がかかってすぐに取り外せば,鳥の体を傷めることが少ない捕獲方法のようです。
今も野鳥の生態調査などに霞網が使われるというのは,そういう利点があるためでしょうか。