• 門松
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京都の民家の門松は根引松(→2010年1月1日)で,竹と松を組み合わせた門松は,旅館や大きな料理屋などにしか飾られていません。
岡崎,南禅寺界隈で門松を探してみました。

見つけた門松のほとんどは竹の先端を斜めに切ったもの([写真1]・[写真2] 右側)でしたが,南禅寺門前の順正のものは竹の先端を水平に切ったもの([写真1]・[写真2] 左側)でした。

門松の竹の先端を,斜めに切ったものを「そぎ」といい,水平に切ったものを「寸胴」というそうです。
「そぎ」も,切る箇所によって切り口の形が変わってきます。
節のところで切ると,[写真2]右側の1番背の高い竹のように,笑っているような切り口になります。

門松には関西風と関東風があり,
関東風は,3本の竹の周りに短めの松を配し,下部は藁で巻く。
関西風は,3本の竹の周りに長めの松を配し,前面に葉牡丹や熊笹,葉牡丹,梅老木を添え,下部は竹で巻く。
この辺りで見るものは,すべて関西風でした。

平凡社『世界大百科事典』(2007年)には,門松について次のように書いてありました。

正月,家の内外に立てる生木のことで,門口に松を立てる例が多いので門松と総称されている.しかし,カドバヤシ,門木,拝み松などと呼ぶ所もあり,場所も屋敷の正面や屋内の土間,床の間,神棚の前に立てたり大黒柱にくくりつけたりする例も少なくない.また用いる木も松の他に栗,サカキ,ナラ,ホオノキ,竹,あるいはそれらを2~3種混ぜたものなどがあり,土地によって一様ではない.門口の左右に立てて間に注連(しめ)縄を張ったり,根もとに薪木を寄せかけたり,屋内の場合には米俵に立てたりする.お松様と敬称で呼んだり,雑煮などを供えて拝む所も多いことから,本来は降臨する年神の依代(よりしろ)ではなかったかと考えられている.松などを切ってくる日は12月13日とする所が多く,12月30日までには立て終える.はずすのは1月4日,7日,14日などで,そのあと7日や小正月の火祭に焼却する所が多い.氏神が松で目を突いたため,門松を立てないという伝承も各地にある.

井宏實著『民具の歳時記 増補版』(2000年)には,門松について次のように書いてありました。

煤払いのあと続いておこなうのが「松迎え」である。年神の神霊が降臨するさいに宿る,依代(よりしろ)の松の木を山へ採りに行くのである。日本人は昔から,降臨してくる神霊は常緑の木や季節の草花に宿る,と信じてきた。だから松の木を神聖視して「御松様」と呼び,木を採ってくることも「松迎え」というのである。事始めからは,松迎えは他人の山でもどこの山でも入って採ってもよいとされていた。

こうして迎えてきた松が門松として立てられるのであるが,今日のように表の入口の柱に一対取りつけるのは,新しい都会風である。
 かつては入口の前のカドに大きな松を立て,根元に砂を円錐形に盛った。また入口の両脇にこれを二本立てて,その上に注連縄(しめなわ)を張り渡す形式もあった。その情景は,中世末以来の洛中洛外図や,近世の風俗図に数多く描かれている。本来日本民家でカドというのは,母屋の前の庭のことで,そこは福の神がやってくる祝祭空間と考えられていた。「カドマツ」という言葉も,そうしたところからきた言葉である。
 なお,門松を立てないところもある。大阪をはじめその近郊では門松を立てないのが一般的な風習で,家の中で盛大にまつるのを建前とするところもある。そこでは「拝み松」形式の年神の祭壇を設けている。また,松とは限定せずに,楢・椿・たら・栗・榊・竹などを立てる地方もある。

[写真3]は,平安時代末期に制作された「年中行事絵巻」に描かれている門松です。(中央公論社『日本の絵巻8 年中行事絵巻』(1987年))
平安時代にはすでに門松を飾る風習があったことがわかります。
兼好法師が『徒然草』のなかでお正月の様子を「大路のさま,松立てわたして,はなやかにうれしげなる」と書いているのも,大げさではなかったのですね。

[写真4]は,戦国時代に制作されたといわれる「上杉本 洛中洛外図」に描かれている門松です。(米沢上杉文化振興財団『国宝 上杉本 洛中洛外図屏風』(2007年))
家々の前には一文字の注連縄が張ってあります。
注連縄にはウラジロも飾ってありますね。

笠をかぶって顔を隠している異様な風体の者たちは,手傀儡(てくぐつ)と呼ばれる人形遣いです。