三条大橋東詰,石碑わきに植えられたテイカカズラに小さな花がたくさん咲いていました。[写真5]
テイカカズラの花は初夏に咲くものだと思っていたのですが,今の時期にも咲くのですね。
植栽されたものなので,野生のものとは開花時期が違うのでしょうか。

図鑑の解説と比べてみました。
平凡社『日本の野生植物 木本Ⅱ』(1999年)には,テイカカズラの花について次のように書いてあります。

花は5~6月に開き,白色,径2cm内外,終りに近づくと淡黄色をおびる。萼片は狭卵形~広披針形,長さ約3mm,縁にまばらに毛がある。花筒は7~8mmあり,上部3mmほどが太くなっていて中に雄蕊がある。葯はわずかに花喉からのぞいている。

・径2cm内外
花の径は約2cmでした。
・終りに近づくと淡黄色をおびる
9月17日頃には白い花だったのですが,1週間後にはほとんどの花は黄みを帯びていました。
・萼片は狭卵形~広披針形,長さ約3mm,縁にまばらに毛がある
萼片は広披針形,長さは約3mmです。[写真3]
・花筒は7~8mmあり,上部3mmほどが太くなっていて中に雄蕊がある
花筒は9mm,上部の太くなっている部分は約4mmです。[写真3]
花筒の太くなっている部分の比率が高くなっています。
・葯はわずかに花喉からのぞいている
葯の先端は花喉部に達していません。[写真3]

テイカカズラの名は藤原定家にちなむものです。
定家という名からは,和歌に因むさぞかし雅な伝説があるのだろうと想像しますが,名のもとになったのは,おどろおどろしい話です。
式子内親王の墓に定家の執心が蔦となってまといつき,式子内親王の魂は成仏できずに苦しみ続けたというのです。

この伝説のもととなった式子内親王の墓といわれるものは,現存します。
竹村俊則著『昭和京都名所図会』(1984年)に,次のように書いてありました。

〔伝式子(しょくし)内親王塚〕は般舟院陵域内の西北隅,樹木のうっそうと生い茂る一堆の封土上の小五輪石塔を式子内親王の塔とつたえ,また一に 「定家葛の墓」ともいう。
『応仁記』巻三に 「千本ニ両歓喜寺,此ノ寺ニ定家葛ノ墓アリ」としるすごとく,ここはもと大聖歓喜寺内にあたるが,同寺が応仁の乱で亡んでしまってからのちも,この塚だけは残った。
定家葛の墓とは,式子内親王の墓に定家の恋愛の執心が葛となって巻きついたという伝説からいうたもので,謡曲「定家」 はこれをもとにして作られ,一躍有名となった。しかし史実によるものではない。

般舟院(はんじょういん)陵は,今出川通り千本東入る北側にある小さな御陵です。[写真8]
稜の西側に小高くなった塚があり,頂上に五輪塔がまつってあります。[写真6][写真7]
この五輪塔が伝説のもととなった式子内親王の墓といわれるものです。
伝説にならって,今もテイカカズラが巻きついているではと密かに期待したのですが,そんなことはありませんでした。
それはそうですよね。
蔦のために成仏できないとされているのに,蔦を絡ませるはずがないです。

定家葛の伝説の舞台となったものであることを示す案内版のようなものは,一切ありませんでした。
訪れる人もほとんどいないようです。